「今帰仁村のベールに包まれた歴史を探して」

── 発掘は続く…今帰仁城が語り出す異なる歴史の一面 ──
“数々の優美な陶磁器や調度品たち”
沖縄本島北部、やんばるの大地に眠る「今帰仁城跡」。
この地はかつて、琉球王朝が成立する北山王国の都として栄え、琉球王国の源流のひとつを担った場所だ。現在も発掘調査が続いており、地中にはまだ語られていない歴史や文化が眠っている。
今帰仁城は13世紀末頃から築かれ、14世紀には北山王・怕尼芝(はにじ)がこの地を治めていたとされる。しかし、15世紀に首里の中山王・尚巴志によって北山は滅ぼされる。
その後の文献は、勝者である首里側によって書かれたものがほとんど。北山はしばしば「反逆者」「野蛮」などといった印象で描かれてきた。
だが、発掘の現場から出土する数々の優美な陶磁器や、中国からの銅銭、豊かな集落跡が、そのイメージに異議を唱えはじめている。
北山は交易の中継地として中国や朝鮮、日本とつながっており、硫黄などの資源を輸出し、代わりに陶磁器や銅銭を取り入れていた。
(ちなみにこれは、まだ日本に通貨として小判が登場する以前の話である。)
” 石が語る、今帰仁城跡”
今帰仁城が他のグスクと大きく違うのは、その「石」である。
一般的なグスクは、サンゴの化石を含む琉球石灰岩で築かれているが、今帰仁城には2億数千万年前の「古期石灰岩(こきせっかいがん)」が使われている。これは硬く、色も青みを帯びており、場所によってはアンモナイトの化石も見つかるという。
石垣の曲線が美しく波打つように見えるのは、単なる地形の適応ではなく、当時すでに高度な測量・築城技術があったことを示しているのかもしれない。
また、今帰仁城の築城は14世紀から始まったとされ、日本本土の石垣城郭よりも1世紀以上も早い。
つまり、日本の戦国時代の城づくりの原型が、実は琉球にあった可能性があるのだ。
そして、築城年数からみて、高い築城技術と共に人々を統制する力があったからこそ成しえたものだと推測される。
「反逆者」「野蛮」という印象とは少し違う…そんな歴史の一部を感じてしまう人は一人ではないはず。
“さあ、今帰仁村へ旅しよう”
現在の今帰仁城跡の魅力
今帰仁城は1609年、薩摩藩の琉球侵攻によって監守が引き揚げた後、城としての機能を終えた。
その後は御嶽(うたき)として、精神的・宗教的な場所へと姿を変える。
城壁の内外に点在する拝所や御嶽は、今なお地元の人々の信仰の対象であり続けている。
桜が咲く城跡
毎年1月から2月にかけて、今帰仁城跡では寒緋桜(かんひざくら)が咲き誇る。
沖縄で最も早く春を告げるこの時期、城の石垣と桜のコントラストが多くの人々を魅了する。
そして、高台からの海、渓谷、石垣の素晴らしい絶景は一年中体験できる。
これをリアルに体験するだけでも、今帰仁村への旅をさらに感動的な思い出にしてくれるに違いない。
そして、この城の本当の魅力は、いまも土の下に眠っている。
発掘は終わっていない。これから先、様々な歴史のカケラに出会えると思うと、今帰仁村の新たな楽しみ方になるのではないか。